M. グレシエ
M. グレシエ
M. グレシエ
18世紀初頭、フランス国王がボルドー地方の有力ブルジョワらに帯剣と土地所有を認めました。積極的なM.グレシエは、1720年頃、ポイヤックへと続く道のそばの谷底平野にそびえる丘陵地に目をつけました。その頂上にある邸宅はグラン・プジョーという名です。グレシエは邸宅の付属建物を建て、20年後には葡萄シーズン用の一軒家も建てました。ヨーロッパ北部で市場が立つようになってから、ボルドーの農場主の頭に、良質なワインを作ろうという考えが生まれました。グレシエはこの考えが気に入り、この事業に取りかかりました。ワインは高い評判を得るようになりました。
シャス=スプリーン誕生前夜
シャス=スプリーン誕生前夜
シャス=スプリーン誕生前夜
1820年、これまで不可分のものだった祖父の名と邸宅の名を冠したこの地所が2つに分割されました。息子はプジョー・グレシエを引き継ぎました。ワイナリーを有するカスタン・ド・プジョー家に嫁いだ娘のリュクレースは、葡萄畑を相続しましたが、家名は受け継ぎませんでした。しかし、1862年のロンドン万博にここで作ったワインを出品するため、名前が必要となりました。プジョー=カスタンという名では、プジョー系の名がひとつ増えるだけです。
義理の娘、ローザ・フェリエールはすでに夫を亡くしていましたが、この時、バイロン卿にまつわる逸話を思い出しました。南欧を旅して回り、革命運動を支援した彼は、グレシエに立ち寄りました。一家の曽祖父による丁重なもてなしを受けたバイロン卿は、ここのワインについて、スプリーン(憂い)をシャスする(追い払う)ことにかけては並ぶものがないと、賛辞を送ったそうです。彼はこの表現で「コピーライト」をやってのけたのです。ここから何かが浮かび上がります。
シャス=スプリーンの誕生
シャス=スプリーンの誕生
シャス=スプリーンの誕生
ローザ・フェリエールは個性的な女性でした。プロテスタント教徒の彼女は、ムーリス=アン=メドックの村にプロテスタント学校を作りました。これは、フランス南西部が急進的な社会主義に染まり、完全な非宗教性がもてはやされていたこの時代においては、あまりにも政治的な行動でした。この学校には、1960年代になるまで、村の子供たちが通いました。
ローザの夫は亡くなっており、彼女がひとりでカスタン・グラン・プジョーのドメーヌの運営を行いました。すでに素晴らしいワイナリーでしたが、彼女がさらに名声を高め、ロンドン万博の主催者らがこのドメーヌから複数のミレジムが出品されることを望んだことからもそれは明らかです。主催者らは、このワインの品質が安定していることを証明したかったのです。このワインの評判は英仏海峡を越えて伝わっており、そうしたワインは少なかったからです。
ローザはマーケティングの分野においても先駆者でした。彼女のワインは、近隣のワインとあまりに似すぎているこの名では物足りなくなっていました。多くのワイナリーは、所在地の名と所有者の名をつないだ名を使っており、グラン・プジョーもこの例にならっています。
ロンドン万博の成功から分かるように、この時期は英国文化がもてはやされた時代でした。政治的には英仏協商が結ばれ、エドワード7世がパリに滞在しました。英国風のものが流行し、海水浴や山歩きがレジャーとして英国から入ってきました。英単語がフランス語に「逆輸入」されます。たとえばボードレールは「スプリーン(憂い)」という単語をフランスで「トレードマーク」のように使いました。
その頃、ボルドー生まれのオディロン・ルドンがいました。わずか23歳で、まだ象徴派の芸術家の仲間入りをしていません。しかし、地元では名前が売れ始めていました。
ローザは、彼がまだメドック地区のペイルルバードをよく訪れていることを知っていました。ほんの一里足らずのところに彼の両親の地所があるのです。ローザは彼が『悪の華』の挿絵を描いたことを知っていたのかもしれません。彼女が友達と芸術家らを招いたサロンで、ローザの勘とルドンの感じ取った時代の流れが、このドメーヌの名を生み出すこととなったのでしょう。訴求力と覚えやすさから選ばれた名が「シャス=スプリーン」です。
短期間の所有
短期間の所有
短期間の所有
18世紀、ボルドーのグラン・ヴァンを扱う市場が北ヨーロッパに現れました。ハンザ同盟に加盟しているドイツの有力商人らがこちらに力を入れ始めます。商品を確実に調達できるよう、ジロンド川流域を商人たちが駆け回ります。商取引をきっかけに始まった「月の港」と呼ばれるボルドー港との関係が深まり、商人らにとってボルドーの生活文化がさらに身近なものになります。中には、ワイナリーを受け継いだり、購入したりする者が出てきました。セグニッツ家はブレーメンで成功した事業家でした。何世代も前からボルドー産ワインの取引を行っています。20世紀初頭、彼らのボルドーにおける地位はさらに高まっており、1912年、シャトー・シャス=スプリーンをフェリエール未亡人から購入したことで、地位は確実なものとなりました。彼女の相続人らは、ワイナリーを相続したがらなかったのです。軽口に乗せて、当時の人々は財産を失う最良の方法を順に並べてこう言いました。女性、馬、そしてメドックのシャトーと。
セグニッツ家が所有していた頃、シャス=スプリーンはドイツ北部で評判を高めました。
ところが、2年後に戦争が始まり、終戦時には、敵国人の所有財産ということで、シャス=スプリーンは国に没収されます。根っからの商人で、このブランドがに持っていたアドバンテージを失いたくなかったセグニッツ家は、新所有者とすぐに関係を再建し、ドイツでまたこのワインの販売を始めます。シャス=スプリーンは、ドイツ市場で再び良い位置を占めます。セグニッツ家はラーリー家、続いてメルロー家と親しい関係を築いていきます。20世紀の大半の期間、セグニッツ家の一員であるヘルマンがこのワイナリーの唯一の交渉相手として評価され、彼はルター派らしい重々しさでフランス語を話し、ワイナリーを訪れるのを好みました。
ラーリー家による近代化
ラーリー家による近代化
ラーリー家による近代化
フランソワ・モーリアックは、厳しい表現で、何千ヘクタールものオニマツの生えた沿岸地域を所有する、ランド地方のブルジョワらの20世紀初頭の様子を表現しています。中には、自らの所有地だけを通ってボルドーからスペインまで行ける一族もあったとか。ラーリー家もそうした一家に数えられます。ランド地方に古くからある一族で、この姓は県内の村名にも見られます。
営林事業で十分に収入があり、農業事業の多様化を模索していたプロスペール・ラーリーは、評判の高いムーリスのワイナリーに関心を寄せます。このワイナリーは、ドイツ人が所有していたため、戦後補償としてフランス共和国が手に入れたものでした。2回の競売を経ても、シャス=スプリーンには買い手が付きませんでした。戦後すぐの時期で、経済はすっかり停滞していました。財産は失われており、ワイン事業を手がけても、先行きのリスクが高いと思われていたのです。しかし、プロスペールは最終的に1922年、ワイナリーの所有者となることを決断しました。木材とテレビン油の事業が好調だったので、必要ならば、ここからワイン事業に投資ができます。シャス=スプリーンは、収益の変動による打撃を受けないオーナーが経営するという幸運に恵まれたのです。ここのワインはヨーロッパ市場に流通し、安定した品質で良いイメージを持たれています。その好例がワイナリーの醸造倉です。なんと、初代の倉は1964年、メドック地区で初めて地下に作られました。
1970年代初頭まで、シャス=スプリーンが最高のクリュ・ブルジョワ級ワインであることに異議を唱える者はなく、1919年の格付けの際にはクリュ・ブルジョワ・エクセプショネル級に認定されましたが、残念なことに官報に掲載される公的なものではありませんでした。90年近く経って2003年にクリュ・ブルジョワ級が公式な格付けに認定された折、ようやく正式に認定されたのです。
間もなく、プロスペールの後を継いだフランクが登場します。父はワイナリーを投資対象として見ていましたが、息子のフランクはここに情熱を見出します。20世紀の前半、彼は素晴らしい偉業を成し遂げます。彼の管理の下、シャス=スプリーンは1855年以来の格付けを安定的に獲得し続けます。1977年、生まれ故郷で余生を送りたいと望んだ彼は、ワイン市場の変化によりよく対応できるメルロー家にシャトーを譲渡します。その10年後、フランクはこの世を去ります。
新しいビジョン
新しいビジョン
新しいビジョン
ジャック・メルロは1911年、ボルドーに生まれました。判事の家系の出身であり、彼も法律を学びましたが、商売のほうに強い興味を持ちました。
1931年、経営大学院(HEC)を修了した彼は、義理の兄弟とともに会社を設立しました。社名には、南米におけるシャンパーニュ販売の成功で有名だった義理の兄弟の名を付けました。地中海のセット、続いてベルシーへと移動していった2人の企業家は「ワイン卸商」としての立場をわきまえており、南ヨーロッパと北アフリカのワインを、常に渇きを訴えるフランス市場へと運んでくるのでした。
歴史的には、メルロはフランスで大規模店舗が成功すると早いうちに予感していた人物としても知られています。1970年、フランス全土に増え続けつつある大型販売店の、拡大を続けるニーズに応えるための、第一線の窓口として重要な地位を占めるようになりました。顧客である大手流通業界の成長とともに、彼の会社も成長を続けます。
市場の好みが洗練されるにつれて、ジャック・メルロはボルドーのグラン・ヴァンに注目します。彼はボルドーでいくつもの商談をまとめます。1970年にはメストレーザと、1978年にはジネステやデスカスとの取引を成立させ、これらは息子のドニが引き継ぐことになります。また彼はフランスの他地域にも手を広げ、ローヌ渓谷のラ・コンパニー・ローダニエンヌ、ロワール渓谷のジョゼフ・ヴェルディエ、ブルゴーニュ地方のロピトー(後に売却)などのワイナリーを購入します。彼はパリ近郊のシャントヴァン社を手放し大型取引と決別します。ワイン生産に興味を持った彼は、ムーリス地区のクリュ・ブルジョワ・エクセプショネル級のシャトー・シャス・スプリーンを1976年に(当時彼は65歳)、マルゴー地区のクリュ・ブルジョワ級のシャトー・ラ・ギュルグを1978年に、ポイヤック地区のクリュ・クラッセ第5級のオー=バージュ・リベラルを1982年に買い入れます。
グラン・ヴァンの未来を確信していた彼は、自らが3つのワイナリーのトップに立ちつつ、もう1つのワイナリーの補佐役に就きます。それがシャトー・フェリエールで、1992年、マルゴー地区のクリュ・クラッセ第3級に認定されました。1996年、オー・メドック地区のクリュ・ブルジョワ級シャトー・シトランを手中に収めることでこの選択を確実なものとし、サン=ジュリアン地区のクリュ・クラッセ第2級シャトー・グリュオ・ラローズを1997年に購入しました。
彼が高齢になり、子供たち(ドニ、アントワーヌ、ジャン)と2人の孫娘(クレールとセリーヌ)がグループ経営に携わります。グループは2000年、カナダでジョイントベンチャーを立ち上げ、いっそう力強さを増しました。オカナガン渓谷のオソユーズ・ラローズはボルドーに似たワインで、北米で成功を収めています。2003年、ムーリス地区のクリュ・ブルジョワ・シュペリュールであるシャトー・グレシエ・グラン・プジョー。2005年、オー・メドック地区のクリュ・クラッセ第5級のシャトー・ド・カマンサック。さらに中国、モロッコ、南仏コルビエールでの事業が始まります。
現在、メルロ家はメドック地区に450ヘクタールのクリュ・クラッセまたはそれに準ずる地所を有しており、他に海外の畑もあります。ジャック・メルロは、業界アクターの最高のパフォーマンスに常に通じていました。彼は魅力的なオーラを発し続け、グラン・ヴァン市場の状況が変動するたびに、人々は彼に意見を尋ねたものです。ランド地方に移ってからも、彼は常に電話を手元に置いて、電話が鳴るとすぐに応じていました。ジャック・メルロは2008年12月、97歳でこの世を去りました。
新世紀へ
新世紀へ
新世紀へ
2000年にシャス=スプリーンにかかわり始めた時、セリーヌ・ヴィラールはワインの世界ではまだ無名でした。しかし、彼女はボルドーのワイン業界人の妹であり、娘であり孫でもありました。
彼女の母ベルナデットは若くして亡くなるまで、シャトー・シャス=スプリーンを経営しており、シャトーが有名になったのは彼女の尽力によるところが大きいのです。セリーヌの姉、クレールが母親の後を継ぎ、シャス=スプリーンの国際的な名声を確実なものにしました。ワイン業界で素晴らしい成功を収めた祖父ジャック・メルロはどんな喜びの言葉を述べるでしょうか。ジャックはタイヤン・グループの創立者です。ワイン商であり、ワイナリー経営者でもあり、メドック地区にクリュ・クラッセおよびそれに準ずる畑を450ヘクタール有しています。
若い頃から、セリーヌはジレンマの中に生きていました。ワインを取るべきか、建築を選ぶべきか。
結局、彼女はどちらにも決めないことを選びました。
建築に没頭する一方で、彼女は夫であり、3人の息子たちの父親であるジャン=ピエール・フーベをシャトーの幹部に引き入れます。彼女が社長を務め、その夫が全般的な管理を担当します。
ジャン=ピエールはコミュニケーション能力の高い人です。すでにいくつもの家族経営企業や他のワイン会社で経験を積んでいました。
セリーヌはワイン、ワイン文化、シャトー、庭園(風景と建築)を愛しています。セリーヌはワインを愛していますが、その理由を探ろうとはしません。こういうものなのです。これが彼女の世界なのです。彼女はこの世界に育ち、深い愛着を覚えています。
メドック地区の至宝のひとつである素晴らしい事業にパリジャンである夫を参加させましたが、これが夫を最高に喜ばせることになりました。ワイン業界に入ったのもボルドーに来たのも若いうちではありませんでしたが、彼はここに情熱を見出し、妻と妻の家族から手ほどきを受けました。
2005年、シャトー・グリュオー・ラローズを担当している叔父のジャン・メルロとセリーヌが共同で購入したクリュ・クラッセ第5級シャトー・カマンサックの経営に、セリーヌ夫婦が専門性の高い能力を発揮しています。
私たちに欠けていたもの
私たちに欠けていたもの
私たちに欠けていたもの
ムーリスというアペラシオンの4つの砂利の丘陵のうち、シャス・スプリーンが手に入れていない土地が1つありました。シャトー・ブリレットのブドウ畑と手を組むことになり、シャス・スプリーンはそれまで欠けていた砂利の土壌区画「ボタンホール」を手に入れることができました。アぺラシオンの西端に位置する石灰岩に浅い粘土が混じった砂利の多い丘陵が、ムーリスの特徴を形作っていますが、今やすべてシャス・スプリーンのもとに集まり、AOC(原産地呼称)のすべてのテロワール(風土や土壌の特性)のアイデンティティを網羅する全体像を形成しています。ブリレットのブドウ畑の30ヘクタールは、細かい砂利質土壌の均一な地帯を形成しており、一部には大きな小石の混じった砂利質の区画がいくつかあります。周囲の生態系は、豊かな森、湿地帯、草原に囲まれています。
エリック・ボワスノ、ワイン醸造コンサルタントは、こう語ります。「私はブリレットとシャス・スプリーンの両方のテロワールをよく知っています。長年にわたり、これらのワイナリーに助言をしてきました。」
「2つのブドウ畑の融合は、深い砂利土壌で育つカベルネ・ソーヴィニョンの割合が増えることで、シャス・スプリーンのワインにメドックらしい特徴をもたらすに違いありません。」